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福井大仏
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「福井大仏観音・西山光照寺<本殿>」
福井大仏観音・西山光照寺
いのちの旅
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《いのちの旅》
:ひとりの信仰者として

白崎良典和尚さんが<2012.3.31>に御遷化なさいました、
  
家内安全・厄払い等の祈願、ご希望のお方は、お申し出ください  

  「脳死」と「臓器移植」について
平成11年6月11日 「法話の夕べ」   白崎良典
 1.はじめに

 今年の2月下旬、平成9年10月から施行された「臓器の移植に関する法律」に基づく医療行為として初めての臓器移植が我が国で行われました。
(以前北海道の大学で、心臓移植が行われたが、法律がなく医師は刑法による疑いで取り調べられた。
(注1)
そして5月上旬には2例目の手術が行われました。

 これらの報道を、自分に係わりのある問題としてとらえた人がどれだけあったのか分かりませんが、(これらの報道をうけて、ドナー登録をした人が数多くいらっしゃる、ということも聞いています。)仏教徒としては考えざるをえない重要な問題を含んでいると思います。 

それで今日は少し皆さんとともに考えたいと、この題にしました。

 これまでも腎臓移植や肝臓移植ならびに角膜移植などは行われています。またやけどした後の皮膚や自分自身の血管・骨などを使用した治療なども盛んに行われています。生体肝臓移植なども、いわば、日常茶飯事に。

 しかし、重い心臓病の心臓移植でしか延命できないと判断された人は、生きている人の心臓はだれも提供してくれないので、外国でこれまで行われていたものですから、高い旅費・滞在費・治療費を負担して出向いていきました。恐らく現在でも外国で移植を待っている人がおいでになると思います。


2.「病」

 私的なことで恐縮ですが、わたし自身これまで入院回数11回、身体にメスを入れたこと12回、青年期からずーと病抜けしない状態で来ました。病気とのお付き合いは今も続いている訳です。「死に至る病」らしいものにもかかりましたが、お陰様でまだ至っておりません。

 釈尊の出家された出来事のきっかけは、「四門出遊」の話として伝えられていますし、関連した物語としては、或る時に畑で農夫が働いているのを見ておいでのときに、農夫が土を耕こしますと土の中の虫を見た鳥が飛んで来てそれを啄む、すると上空から大きな鳥がその小鳥を捕まえる、という光景(食物連鎖)を見られて、生きることの無常を感じられたことなどが伝えられています。

 すなわちご存じの、「生・老・病・死」というのは、生きとし生けるものが逃れることのできない、まさに大変な精神的苦しみであり時には身体的な苦しみであることを認識されたのであります。出家はそれをどうしたら克服できるか、という命題を抱いてのものであったわけです。

 幸いに現在そう大した病気を持たずに生活している人は、「健康で長生きして、ポックリ死にたい。」と、よく言います。強い願望です。私も常にそのように思います。

 一方、完治することが分かっていて療養している人は、完治するという明るい希望がありますから別ですが、現在その見込がなく、今病で苦しんでいる人にとっては、またそのご家族にとっては、その病気の治ることを神仏にすがる思いで待ち望み、時には絶望の思いに駆られることもあると思います。だから、何としても治したい、治してあげたい、どんな犠牲を払っても、という思いもされていると思います。「気を病む」ことも多いと思います。


3.「医療」ということについて

 人類が誕生し、文化を持ち文明生活を体験するようになってから、いつも「病」の苦しみは付きまとって来たのであります。その時代その場所で様々な治療が施されてきました。はじめの頃は、やはり自然界の「威光」すなわち「畏れなるもの」の力を借りて祈ったでしょうし、経験から地上界にある植物なり鉱物の治癒力を知って施療しただろうと思います。文明生活に入りますと、手術などの手段も取られるようになり、現在の医療に繋がってきます。

 医療行為は、病人のその苦しみを和らげないし解消するために、哀れみの心(慈悲)と手立てを持って行われるのが原則だと思います。おそらく科学技術の門が開かれるキッカケとなった産業革命まではそうだったと思います。

これまでのそのために種々の薬が発見され、また治療方法が考えらたりしてきました。その間に、貨幣経済が一般的になりますと、治療行為が生活手段となり貨幣蓄積の手段となります。薬にしても『もうけること』が新薬開発の行為となってきます。結果として薬害問題も起こりました。

(かっては○○家伝来の秘伝薬などといったものがありました。これは施薬されたものが殆どでした。)科学技術が発達してきますと、人間の科学的探求心が様々な方向に向いてきて、医療行為も実験を土台にして技術としての要素を持つようになってきました。これまでに考えられない医療方法が取られるようになりました。それらの先端を行くのが「臓器移植」と考えてよいと思います。  

4.「死」について

 人間というのは、経験的に物事を把握して初めて確認し、信じるという基本的な性癖があります。「いのち」というのは「誕生」という現象をみて納得するのですし、自分が経験しないものについては「そんな馬鹿なことが。」などと言って信じようとはしません。

 「死」についても、呼吸が止まり、心臓の動きが止まり、脈がなくなり、瞳孔がひらき、体温が下がって初めてそれを確認し、納得し、諦めました。

 「脳死」というのは、死の過程を人為的・機械的な働きによって前もって予断しようとするものであります。これまでの私たちの体験的な認識と大きな隔たりがあり、しかたないから「法律」という拘束力をもつこれも人為的な方法で納得させようとしたものが「臓器の移植に関する法律」(以下「同法」と云う事にします)であります。

すなわち、私たちが経験的・歴史的に納得してきた「死」に至る前に、法律によって「殺してしまう」のがこの法律です。(丁度、「殺人はいけない。」と言いながら、殺人犯を法律の名の元に「死刑」にするのと重ね合わさって、私には感じられます。それとともに法律の怖さを感じます。)もちろん、「本人の事前の意志表示」や「家族の同意」などという条件がありますから、実際にはそう簡単に判定し「臓器摘出」できるものではありません。当然のことです。

 それにしてもこの法律は「何とかして脳死を人の死としたい」という、非常に無理な理屈を考えて作っています。

一つには
 
「同法」第6条に、「脳死とは、全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたもの」と、あります。屁理屈になるかも知れませんが、自分の意志表示が何もできないなどの状態にあっても、脳の細胞は血液が流れている限り生きています。脳細胞は死んでいないのです。だから、脳の機能が停止している妊婦でも、出産が可能なのです。
「死者」が子を産めますか。
(注2)


二つには

 生きている人を傷つければ傷害罪です。(10年以下の懲役)死体を傷つければ死体損壊罪です。(3年以下の懲役)これら法に触れることは絶対避けねばなりません。そこで「本人の承諾」ーわたしは殺されても結構です、という遺言状-という条件を入れてきたのです。これは制定した者が、脳死が「人の死」であることに躊躇していたからです。


三つには
 
何よりも、まだドキンドキンと鼓動している心臓を取り出すのですから、きわめて残忍な所作ということができます。動物実験では行われているのでしょうが。「人間の尊厳」はどこにあるのか、疑問になります。


四つには

 
脳死を判定する基準の一つに、「自発呼吸の消失」の有無を判定が必要だとしています。自発呼吸ができないから「人口呼吸器」をつけるのです。「自発呼吸の消失」の有無を確かめるためには、その装置を外す必要があるのではないでしょうか。健康なものでも、口をふさがれたら窒息死する場合がありますし、空気を送らなければ脳細胞にも新鮮な酸素の補給はできません。となると、判定する段階で、その人の命を人為的に断ってしまうことにもつながると考えます。

 以上のように多くの疑問が残ります。

5.移植を待つこと,そして移植

 何としてでも「生きたい」「生かしたい」という関係する人達の心情はよくよく分かっているつもりです。その上で、「脳死による臓器移植というのは、別のある個人の死と引き換えに行われる。」という事実だけは指摘しておきたいと思います。

もちろん人間は食物連鎖の頂点にありますから、生きているときには当然他の多くの生き物の命を断って、その命をもらって自分の命を永らえることをしています。またわたしの命は、両親という命の後継者として存在する。すなわち、両親の死という現実を前提にして成り立っている、と言うこともできます。そこに釈尊の「不殺生戒」すなわち、「無駄な殺生をしてはいけないよ。」「諸々の命(物をも含む)を大切にしなさい。」の教えが出てくるのです。

 移植が行われた後、人体には本能的に異物がはいりますと、それを排除し拒絶しようとする力が備わっているといいます。そのために移植された臓器はいわば身内として受け入れられません。そこで使用されるのが、免疫抑制剤だそうです。ところが免疫を抑制すると感染症に罹りやすくなるというのです。そのために今度は感染症の予防薬が必要になるというのです。まさに深い谷間にかけられた丸太橋を渡るような治療が行われるのです。(注3)

 そして、あまりよく報道されませんが、心臓や肝臓の移植を受けた人の1年後の生存率は8割、5年後の生存率は7割だそうです。  かかる費用は約2千万円、術後使われる薬代は月に20?30万円。まあ金額のことは置いておきましょう。 

 最後に、盛んにいろんな移植手術が治療として行われてきますと、当然移植に要する臓器などが不足してきます。この場合に、日本では禁じられている、営利目的での臓器売買が行われないか、という問題です。すでに東南アジアなどでは行われているという話を耳にします。

もう一つは、人間の身体の各部が部品として扱われるようにならないか、ということです。すでに皮膚や角膜や精子などは冷凍保存できるらしいですが、他の臓器などがなかば部品として保存される、ということになりますと、人間が古いのか知れませんが、それこそ「人間の尊厳性」を否定する結果になって行くのではないかと危惧します。ましてやそれが売買されるようなことは、臓器提供者の人格を軽んずるばかりか、人を物としか見ない心寒い状況を作り出すのでは無いかと思います


6.ドナーカードをもつ意味

 生きている人間が自分の意志で他人を救うために自分の命を提供しようということは、確かに大変勇気のいることであり、称賛に値する行為であると思います。釈尊の過去世物語であるジュータカにもでてきますし、法華経の中にも腕を灯明皿にみたてて灯明を灯し仏を供養した話などがあり、まさに菩薩的布施行であると考えてもよいかと思います。
またそれを承諾されるまわりの人々の決断にも頭がさがります。
(注4)

7.寺の住職として

 仏教の考え方に、四有というのがあって、それは生有、本有、死有、中有を言います。

 生有とは、卵細胞に精細胞が入り両者の遺伝子細胞が結合して新しい生命が生まれた瞬間をいいます。生命活動が始まり生命力を活発に働かせる、この期間を本有。残念ながら生命活動も終わりを告げ、死を迎える瞬間、これを死有といいます。
死有のあとは、次の世界での生有を迎えるための準備期間で、これが中有。これは死の瞬間から7日目ごとに逮夜の法事を7回重ね、49日目には次の世界へ旅立ちますから、その出発儀式として満中陰法要(いわゆる忌明け・49日法要)が行われることになっています。

 ところで死有の後のその人の往生を願って行う葬儀ですが、そのご遺体には肝心の心臓や、肝臓、肺臓、脾臓、腎臓などがないとしますと、僧侶としての私達が葬儀に臨むときに「三界の大導師」としてこれまで執行してきたときの思いとは、この場合は何となく違った風に感じられてくるように思われます。その場に居並ぶ人も思いは同じだと考えます。葬式のあと献体に出すのとは、感じが全く違うと思います。

 このような現実に直面しなければ何ともいえませんが。

 また、枕経というのがあります。これは死有を迎えるに当たって本人に「心配せずに安らかに逝ってください。仏様がお待ちですよ。」と枕元で説くのが本来の趣旨です。現実にはこのように厳格な時間に行なわれることはありませんが、

「脳死の判定」が行われますと。逆にこれを正確に行うことができることになります。変なことから。死刑囚に死刑執行のまえに説戒するのと同じです


8.最後に

 最近の医療なども、患者さんの命よりも科学的な興味や科学者の学問的名誉的なものが優先されてそれが応用されているような気がします。まさに実験的に。(注4) 

これも世の中の進歩発展に必要だといってしまうと、それまでです。しかし、仏の教えから考えますと、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」であり「諸法実相(しょほうじっそう)」でありますから、生を喜び、病をそのまま受け入れ、死の現実もまたそのまま受け入れるという、心の持ち方がまず大切なのではないでしょうか。五蘊盛苦(ごうんじょうく)には気がつきませんが、愛別離苦(あいべつりく)は悲しいものです。しかしそれも必ずいつか何かの形で訪れるものであるということを忘れてはならないと思います。
(注5)

(良典師法話 終わり)  掲載 平成27年4月3日

 参考文献 「寺門興隆」 平成11年4月号の遠藤 誠師の執筆記事

       「大法輪」 平成11年5月号佐伯快勝師の説法記事

       朝日新聞 平成11年5月17日付けならびに6月1日付けの記事


*注記:脳死と臓器移植について

 「脳死と臓器移植について」論じた先代住職の法話原稿をご紹介いたしました。

これは宗教的立場からの論説ですが、脳死による臓器移植を否定するものではなく、

臓器移植に携わるには生命倫理にたいする深い理解が必要であることを述べたものです。


注1)

 1968年8月北海道のある医科大学で行われた日本最初の心臓移植手術。

「患者の治療方法が心臓移植以外に無かったのかどうか、脳死判定が客観的に妥当なものだったかなど、多くの疑問が提起され、その後の日本の移植医療に大きな影響を与えた」とのことです。


注2)

 最近の例では、九州のある大学病院で2012年から2013年の2年間で脳死状態の妊婦が出産した事例が2例あったことが、日本産婦人科学会で報告されています。

(2014年4月熊本日日新聞)


注3)

 この世に存在している生命は単なる物質ではありません。

仏教では、この世の動物、植物、その他諸々の存在はすべて意識・魂を宿す生命であると説いています。

人間の身体を構成している臓器にも個性がありますが、これは個々の臓器にも意識が宿っており、もとの持ち主の個性を受け継いでいるからだ、という説明がなりたちます。

人間には本体の意識(人間の心)と臓器それぞれの意識が存在し、これらが調和して人間としての意識の働きが為されているのであると、考えることができます。

脳と神経の働きを「脳脊髄神経」と「自律神経」に大きく分けることができるそうですが、身体の持ち主の意識の働き(人の心)を脳脊髄神経に関わる意識の働きに、個々の臓器の意識の働きを自律神経の働きに、それぞれ関連付けてとらえることが可能です。

この考えにたちますと、臓器移植による拒絶反応は、「もとの持ち主のもとで、仲間達(身体を構成している臓器群)とともに身体の働きを支えていた臓器が、全く縁の無かった他の人の身体に移植されたときに、新しい持ち主(移植を受けた方)の意識との調和が取れず、活動を拒否するために引き起こされる」と、このように理解することができます。


注4)

 人間がこの世に生まれるにはその目的があります。

その一つは自己の豊かな精神を育くむこと。

地球上では諸々の生命がお互い協調し、支え合い、豊かな大自然を営んでいますが、この大自然を更に安定した安らぎに満ちたものに調和していくことが人間の大切な役割の一つです。

臓器移植については多様な考え方・意見がありますが、宗教的な視点で生命の尊厳をとらえる立場から、例えば以下のような指針が示されています。

これはある宗教家が述べたものです。素朴な内容ですが、深い示唆に富んでいます。

移植医療において、関係者(医療関係者・臓器提供者・提供を受ける側)が慈悲と愛の心をモットーにし、自我我欲を捨てて治療行為に携わるのであれば、拒絶反応を克服し、医道としての成果をあげることが可能になっていくことでしょう。

a) 治療に携わる医療関係者が地位・名誉・財産等への執着を持たず、病気に苦しむ人々救う純粋な念に満たされていること。

b) 臓器提供者の善意(慈悲心)。執着を捨てて医道に協力し、病気の方を助けようとする心。

c) 医療関係者は臓器提供者の魂と移植する臓器の意識の尊厳を大切にし、感謝の心を持ってこれらを取り扱うこと。

d) 提供を受ける側は、提供者と提供を受ける臓器に心から感謝の心を持ち、治療を受けた後は、自我我欲を慎んだ、心豊かな人生を歩む道への精進に努めること。


注5)

 ここでは仏教用語がまとめて出てきますので、その意味を概略まとめて記します。
詳しい解説は今後また機会を見てご紹介していきます。 


・「諸行無常(しょぎょうむじょう)」

 仏教的には、物質世界の万物が永遠に運動を続け、転生輪廻の姿を示していることを言う。
この世のすべての存在物は常に運動を続け、変化し続けている。


・「諸法実相(しょほうじっそう)」

 この世のすべての現象は心の世界の働きによって表れていることを言う。


・「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」

 五蘊が生み出す苦しみ。
煩悩とその結果として現れる“業(かるま)”による苦しみを表す。


五蘊:色、受、想、行、識の五つ

 色:身体と身体が持つ感覚器官を表す。また、この世の物質的な存在も""と呼ぶ。

 受:感覚器官による感覚とその認識内容。

 想:感覚器官の認識を基にして心の中でモノを思い考える想念。

 行:想念を基にした行動。

 識: 意識の中に蓄えられる、これら色受想行の働きの記録。 感覚器官を基に為された想念とモノの考え方を指す。
    執着を持ったまま五蘊を働かせると煩悩が生じ、これが苦しみの原因となる。


・「愛別離苦(あいべつりく)」

 愛する物といつかは別れなければならない苦しみ

 (注記 終)平成27年4月5日 編集 西山光照律寺住職 白崎良演
ここでは本文の理解を助けるために注釈をまとめました

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