★毎年,節分には、星まつりを開催いたします。
★福井大仏観音・西山光照寺 <家内安全・厄払い等に祈願>ご希望のお方は、お申し出ください★

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福井大仏 住職
「福井大仏観音・西山光照寺<本殿>」
福井大仏観音・西山光照寺
住職の法話
 福井県福井市花月1丁目1-26 
 
0776-24-3869  FAX 0776-25-6630 
 



マウスを写真上に



 お盆の行事 永代経(えいたいきょう)について・・・

大抵の檀家寺では毎年7月中旬に新盆の行事をおこないます。

お盆の三が日(13日?15日)には僧侶が各檀家をまわって仏壇に経文を供養し、またこの日の前後に日を定め、亡くなられたお寺の檀越(だんおつ)だった方々、大抵は檀家のご先祖様達ですが、この方々のあの世での冥福を祈るため、お寺で行事を催す所が多いようです。
私共の住む福井では、新盆から一か月遅れた8月13日から15日の間にお盆の行事を行う所もあります。

当山では、7月上旬頃に檀家の方々を集めて亡くなられた先祖の永代回向(えいたいえこう)の行事を行います。これを永代経と呼んでいます。

1.回向について

現代の伝統仏教(私達の宗派)では、この世を去った先祖の霊達のあの世での冥福を祈ることを、回向(えこう)と呼んでいます。

今は同様の意味で供養と言うのが一般的かも知れませんが、かなり古い時代からこの”回向”が正式な言葉として使われています。しかし、元々この言葉が意味していたものは”私達の先祖がこの世で生活していたときに行じることができなかった善行を、子孫の私達が代わって行うこと”でした。 これが何故、あの世の先祖の冥福につながるのか。仏法(大乗仏教)が説く処によりますと、私達がこの世に生きる目的の一つは、善の行い(おこない)を為していくことによって、この世を煩悩による苦しみの世界から安らぎの仏国土へと調和していくことです。この世は原因と結果が連続してつづいていく世界です。

たとえば、

この世に住む私たちには生活にともなう苦労が次々と現れてきますが、困難が生じたときに人間どうしが互いに譲りあい、協力しあい、助けあうのであれば、その困難は解消して行くことでしょう。 しかし、現実はそれぞれが己の立場を優先し、助けあう事を忘れて争うことがしばしばです。 互いにうらんだり、ねたんだり、誹りあったり、怒ったり、正しい判断ができず愚かな考えに陥ったり、 このように自己本位の思いで考え行動することは、己の苦悩の原因をつくりだし、その結果は己自身が受け止めなければなりません。この世に存在する物はすべて互いに働きあいながら運動をつづけています。物質は仮にある姿に形をとどめていても、いつか時がたてば、他の姿に形を変えていきます。

またこの世に存在するものの運動をつぶさに眺めてみますと、それぞれが何らかの循環運動をおこなっていることが分かります。

そして、自然界に存在するものすべてが、これらの運動をとおして、互いに助けあい支えあいして、自然の安定した営みを維持していることがわかります。

たとえば、

私たち生命に無くてはならない自然界の雨の恵みは、大気中の水蒸気と大地を流れる河川、そして大海の水の循環によって現れるものです。 さきほど述べましたように、私たち生命にとってこの世は己の為した行為の結果がいつか己自身に帰ってくる世界です。 善には善の結果が、善ならざるものには善ならざる結果が、帰って来ます。

このように、この世の物質のみならず意識の働きの世界を含めて、自然界のすべての存在が循環運動をつづけています。


これを仏教では
輪廻転生(りんねてんしょう)と呼んでいます。
私たちが自我欲望をもとにして思念し行動することは、己自身の首を絞めることにつながっていきます。
私たちが自分本位のこころから離れ、善行を積むことは、大自然界の調和を築き上げていくことであり、この世に生きる目的を果たしていくことである。

このことがお分かり頂けることと思います。

その善行の結果は私達の心に安らぎとなって現れてくるものです。 そしてめぐりめぐって帰ってくるその功徳は、これを行った本人だけで無く、その家族や身近な人達に、そしてあの世の先祖にも届いていくことになります。つまり善根による功徳を己だけで無く先祖に「回し向ける」ということから、”回向”と呼んだわけです。

2.
施餓鬼会(せがきえ)
について

当山の永代経では「施餓鬼会」も行います。 この行事もあの世の精霊達の冥福を祈る行事ですが、こちらは、死んでからあの世の鬼になった魂に、法(仏法)とその光を供養する行事です。人は死んであの世に行くときには、生きていたときの生活に応じた魂の世界に行くと言われています。 執着から離れ、正しい道をあゆみ、自他の差別の無い広い豊かな心を育んだ人々は、
その安らぎの心に応じた天上の世界へ昇っていきます。

しかし自我欲望に溺れ、人を人と見ない、心を忘れた物質中心の生活を送った人々は、その心に応じた苦しみの世界に落ちて行きます。 特に欲望の強い足ることを忘れた生活を続けた人々がこの世を去った後に行く世界は「餓鬼道」と呼ばれています。

餓鬼道に堕ちた精霊に正道を説き、天上界からの光明を与え、一刻も早く地獄の生活から抜け出せるよう手助けをする、いわゆる法を布施する行事が施餓鬼会です。 施餓鬼の由来には諸説ありますが、いずれもお釈迦さまがインドにご在世だった当時、
お釈迦さまやその弟子達が、地獄に堕ちた精霊に法を説き、地獄の生活から救って行かれたエピソードが元になったとしています。

ひとつはお釈迦さまの十大弟子のひとりであるモッガラーナ(大目連「だいもくれん」)尊者のお話しです。

モッガラーナ尊者が阿羅漢(アラハン)の悟りの心境に達したときに、己の母親が餓鬼道にいることを知り、お釈迦さまに相談したところ、餓鬼道にいる母親の代わりに人々へ布施行をなしていくことをお釈迦さま勧められたエピソードです。

他には鬼子母神(きしもじん)のお話しもあります。

これは人間界の子供をさらってはその命を奪っていた訶梨帝母(かりていも)が自身の子供を失う悲しみにあい、お釈迦さまの教えを受けて悔い改め、今度は身寄りの無い子供たちに布施を行うようになったというお話しです。
この鬼子母神には、そのモデルになった実在の人物がおられたそうです。それはお釈迦さまの弟子であった比丘尼(女性の出家修行者)のひとりで、実際に親を失った孤児を育てる慈善活動を熱心におこなっていた方だったそうです。 おそらくこの方が出家された動機がご自身の子供を死なせる悲しい出来事であったということから、鬼子母神の物語が創作されたのであろうと
思います。

.お釈迦さまの正法

施餓鬼会の由来になった物語のように、仏典にはあの世の精霊が登場する物語が多数遺されています。

しかし、鬼子母神のエピソードのように、後の創作によりあの世の精霊が関わる物語に書き改められた物も幾つかあるようです。
さて、お釈迦さまが説かれた仏法は如何なるものだったのでしょうか。あの世について実際にはどのように説いておられたのでしょうか。 釈迦さまが説かれた仏教の根本は、生きている私たち人間が、生老病死の苦悩から離れ、調和された生活を営み、安らぎの心を得るための方法(いわゆる四諦八正道)でした。

お釈迦さまは弟子たちに、仏法の実践によって、煩悩に翻弄される執着の心を修正し、偽我を捨て、大自然の慈悲の心に通じた真実の我(真我)の自覚を得ることを説かれました。 まずは安らぎの心境を己のものとすることであると説かれ、煩悩から解脱しない心境のまま、あの世の存在や眼に見えない世界に興味を持つことは戒めておられたようです。 まして一般の在家の人たちに、あの世の精霊を拝んだり祭ったりせよなどと説かれることは、一切ありませんでした。


ただ、ある段階の悟りの心境に至った弟子たちにはあの世についても説いておられたようです。
天上界の如来・菩薩は、お釈迦さまが在世の当時のインドでは梵天と呼ばれていましたが、仏典には、お釈迦さまがあの世の梵天らと仏法について語り合う物語が著されています。他にお釈迦さまやその高弟の方々が餓鬼(がき)、羅刹(らせつ)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)
などの地獄界の精霊に法を説く物語など、あの世の精霊が登場する説話が仏典に多数遺されています。

弟子のひとりが「死んだらどうなるか」とお釈迦さまに質問したところ、次のようにお答えになったことが記録されています。

『死後の運命』

この世は無常であり、この世に存在する物はその形を永遠にとどめることはない。死んだ者の身体は土にかえり、自然の元素の一部となる。そして他の動植物の身体の一部に形を変えていく。しかし、長い間信仰を修め、仏法を学び実践し(戒を守り)、
執着から離れたその人の心は、死んでから上方に赴(おもむ)き、すぐれたところへ赴く。
お釈迦さまはあの世の存在を否定しておられませんでした。

以上、見てきましたように、本当の回向(先祖供養)とは、私たちが今の生活に仏法を活かし、身近な人々との安らぎの生活を築く努力を続けていくことです。 遺された子孫が幸福な生活を営むことを先祖の方々が一番喜んで下さることでしょう。

子の健康で安らぎに満ちた生活が一番の親孝行であるのですから。     


 節分星まつりでいただいた質問
「福井大仏に寄せられた質問:九曜星について (つづき2)
   
当山では毎年の節分に星祭を執行します。

このお祭では、九曜星(日曜星、月曜星、水曜星、金曜星、火曜星、木曜星、土曜星、 計都星(けいとせい)、羅喉星(らごうせい)の九つの星)を供養して参詣者の息災・ 延命増益を祈ります。

下記の二つの記事では九曜星を解説しています。
九曜星について
http://oshou-fkdbt.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-f452.html

十年以上もかなり昔ですが、
星祭の準備を行っているときに、当山の檀信徒のお一人か ら九曜星について質問を受けたことがありました。
「気学の九星と九曜星は同じなのではないですか?」  

実はこのときはこの方への説明は控えざるを得ませんでした。
私の場合、“九曜星”は先代住職や師事した老僧方から仏教・密教の伝授を受ける中で 学んだものです。

師匠(先生となるお坊さん)から弟子(生徒となるお坊さん)に伝える教えの一つとし て扱う建前になっています。
密教でとりあげられる星々としては、“九曜星”の他に北斗七星、二十八宿などがあり ます。

この質問を下さった方は、密教でとりあげる星々と他の占いに使用される星とを混同し ている訳ですが、 体系立てて説明しないと更に誤解されるかも知れませんので、いつか詳しく説明する機 会を作ろうと考え、この時には説明しませんでした。
純粋に文化や歴史を議論する立場で説明するのなら問題無いと思いますので、私の考え になりますが、これについて少し記しておきます。

発祥の経緯から見て九星と九曜星は全く違うものです。

九曜星の中で用いられている計都星と羅喉星は上にリンクを貼った頁に記していますよ うに、主にインドで用いられているものです。

一方、気学で用いる九星は一白、二黒、三碧、……等と呼称するそうですが、中国で発明されたものです。 九曜星と直接のかかわりはありません。
気学は中国から日本に輸入された九星を、更に日本流にアレンジしたものであると聞い ています。
方位の吉凶判断に用いられているのを良く目にします。

他に、九星や九曜星とも違う、“九宮”と呼ばれるものもあるそうですが、それぞれ発祥の歴史は違うそうです。
九曜星は他所から中国に輸入されたものと考えられますが、しかしその吉凶判断は中国 文化の影響を受けているのは確かなようです。

他のお寺や神社等でも星祭を営んでおられる所が多く、それぞれ九曜星の吉凶表を公開 しておられます。

これらを拝見しますと、たとえば日曜星を○吉星(大吉)、金曜星を?吉星(半吉)と している所がほとんどです。
日曜星が該当すると思われるのは太陽、金曜星が該当すると思われるのは金星ですが、 インドでは太陽は吉星とされておらず、金星はより吉兆の強い星とされているそうです 。

また九曜星の吉凶の説明に中国で使われる洛書(亀の甲羅を模した方位の図)を載せて いる寺社もあります。
当然ながらインドは洛書を用いません。
ですから、現在使われている九曜星の吉凶表は、九曜星がインドから中国に伝わった後 、仏教の概念と中国で発明された吉凶の判断法を合わせて作られたのはないかと思いま す。

なお月曜星、木曜星を吉兆の強い星としているのはインドも中国も同じであるようです 。

しかし良く考えてみると何かがおかしい。

ここで注記しておきますが、計都星(けいとせい)と羅喉星(らごうせい)は架空の星で、他の七つの星は実在する天体をあてたものです。
自然界に存在するものはすべて大自然の生命の営みを支えているものです。
多くの宗教は自然界に存在するものは造物主が作り出した物で、その存在そのものが尊 いものであるとしています。

星の組み合わせで吉凶を云々するのは今はポピュラーな占法ですが、自然界に存在する 尊い物を、あれは吉これは凶と簡単に分けてしまって良いものでしょうか。

太陽系から、突然、太陽そのものが無くなったらどうなるか、想像してみればすぐ判り ます。 太陽が無くなれば、即、この世の破滅をむかえますが、私達に無くてはならない太陽を インドでは凶星としています。
これは疑問に感じます。

惑星や月にしても、惑星(水、金、火、木、土)や衛星(月)にはそれぞれ大きさの違 いがあり、星と太陽、星と衛星の距離も反映して星の中での気候的な環境の違いがあります。
星々には強い個性がありますが、これらは自然法則によって定められているものであり 、これらが在って太陽系は安定して存在しています。

人間の営みの中に現れる出来事を星々の性格や個性で象徴的に表すのは、一つの表現方 法としてはあり得るかも知れませんが、地上の私達人間の狭い基準でこれは良いこれは 悪いと天空の星々に吉凶を割り振るのは、やはり無理があります。
計都星(けいとせい)と羅喉星(らごうせい)は日食にかかわるものなので、これらを 太古の人達が凶星としたのは許容するとしても、、、です。

一般に公開されている吉凶表の象意がどれほど正確なものなのか、察しがつくところで す。
実際、私が実例を見て実感する所では合わない場合が間々あります。 つまり、はずれる場合があります。
しかしながら、九年の周期的変化の存在を実感できる具体例は身近に良く見られます。

上にリンクを貼った頁にその中のいくつかを紹介しています。 他に具体例を一つご紹介します。
あくまでも解説のための参考例ですから、こうゆう例もあるのかしら程度に考えて下さ い。

★事例 A.H. 氏(D国の独裁者)
今年2月、旧USSR.を構成していた国の間で大きな戦争が始まりました。 これを世界大戦に拡げてはならないと、仲介に奔走する国が現れていますが、激しい戦 闘が止む気配はありません。  

そう言えばと思い、20世紀に大戦争の惨禍を起こしたこのA.H. 氏 の九曜星のリズ ムを調べてみました。

A.H. 氏は西暦1889年生まれで没年1945年、D国の全体主義的な統治をめざす 政党をつくり、この国の総統の地位にまで上り詰めた人です。  
D国は第一次世界大戦に負けて国が荒廃していました。

この方は総統に就任してしばらくは国の再建に邁進し手腕を発揮していきます。 しかし、他国を征服し専制的に支配する欲望にかられ、第二次世界大戦を起こします。
この戦争は数千万もの人々の命を奪う大惨事になりました。

★この方の経歴を見てみます。
上では九曜の吉凶表は正確では無いと記しましたが、計都星● 、羅喉星● 等には吉凶 の●をつけました。ご了解ください。
1921年ごろ N党の党首 かぞえ年33歳 火曜星
1923年 D国内で一揆をおこし失敗 かぞえ年35歳 月曜星
1933年 D国の首相に就任 かぞえ年45歳 木曜星
1934年 D国の総統に就任 かぞえ年46歳 羅喉星●
1939年 D国がP国に侵攻し第二次世界大戦をおこす かぞえ年51歳 火曜星
1943年 1941年から侵攻していたU国で大敗 かぞえ歳55歳 羅喉星●
1945年 D国が降伏 かぞえ年56歳 水曜星  

この方は、日曜星の年から火曜星の年にかけて、生命力の強い時期に政党の党首とな り、木曜星の年に首相に就任します。
(火曜星は吉凶表では凶星●としていますが、人によっては非常に精力的に活動できる 年で、むしろ吉としても良い場合が多い星です。)

しかし歴史に詳しい方は良くご存知のように、人種の平等を否定する極端な人種差別主 義、生命の尊厳の否定など、この方は間違った理念にとりつかれた人でした。  
このような間違った理念に昂(たかぶ)りながら羅喉星●の年に総統に就任します。

火曜星の年に自ら戦争計画を指揮して第二次世界大戦をおこし、始めは成功しているよ うに見えましたが、慢心して立案した作戦が災いし羅喉星●の年にU国で大敗を喫しま す。  
その後は歴史に詳しい方が良くご存知の結果を招きました。  

これはある特定の人間により人類が災難を受けた凶例ですが、この方の場合も、自ら 環境を大きく変えた時期に計都星● や羅喉星● がめぐり来ています。                  
文責 西山光照寺 住職 令和4年4月8日 


 福井大仏西山光照律寺住職 白崎良演のブログ

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 中道の規範、八正道 (旧大仏HP掲載『心の階段』より)

八正道の基準を挙げますと、正しく見る正しく思う正しく語る、正しく仕事をなす正しく生活する、正しく道に正進する、正しく念ずる、正しく定に入る、の八つです


まず、正見、正思、正語、の三つがあります。伝統仏教でも、見る、思う、語る、ということは大事だよ、と言い伝えています

例として、見猿(みざる)、言わ猿(いわざる)、聞か猿(きかざる)、という三猿(さんえん)の喩え、有名な諺があります。身の周りには欲望を駆り立てる諸々のものがあるが、出家者はこれを見ない。また、人の悪口や、欲望をそそるような話を出家者は聞かない。自分も相手の心を惑わすような、人を混乱させるような事を言わない。このようにしなさい、という喩えを使った教えです。


釈迦が説かれた、正見、正思、正語は「中道」の心で、ものを見て、思い、語りなさい、ということです。「中道」に含まれる意味の一つには、「公平」に物を見なさい、ということも含まれていると思われます。ある一つの考え方に偏らず、様々な人たちの話を聞いて、普遍的なものを見いだして行くことです。既成のものを見直し、物事の真実を探る、ということもあると思います


宇宙が安定して存在しているのは「中道」という法則が働いているからだ(「心の階段」の『中道』の解説)と言いましたが、「中道」を成り立たせているこころについて、宗教は説いています。釈迦在世の当時の古代インドでは、宇宙には万物の根源として働いているこころが存在しているとして、これ「ブラフマン」と呼んでいたそうです。仏教では他に「阿頼耶識(あらやしき)」と言う呼び方もします。この言葉は中国に渡って「梵」と漢訳されました。


自然界が安定するのに、なぜこころが必要なのか、といいますと、宇宙に存在する、さまざまな世界の中で、矛盾のない法則性が成り立たなければいけないからです。
自然界を眺めると、どのような視点からでも、その視点に沿った自然法則が成り立っています。理工系の方なら分かると思いますが、力学なら、ニュートンの運動方程式、電磁気学ならマクスウエル方程式、さらに、生命科学の分野でも、ある法則が知られていると思います。


化学なら、例えば、質量保存則など、化学の中で成り立つ法則があります。これらの法則は、てんでバラバラに存在しているのではなく、宇宙全体を貫いて、一つの筋の通った、一体となった法則としてまとめることが出来るのだ、と科学者は言っています


ところが、このように言っておりながら、それを成り立たせているものはなにか、という問には、自然科学はまだ、はっきりと解答を示せておりません。これに対して、宗教では、例えば、キリスト教では神様がいらっしゃるからだよ、と言います。そして、仏教では、自然界にこころが存在するからだよ、と言うのです。それは宇宙全体に普遍的に広がった存在です。それを「梵」と言っているわけです。


少々補足が必要ですが、現在の仏教は、幾つかの流派に分かれています。その中には、理論上、「空」という表現に特別な意味を持たせて、自然界の成り立ちを説明しようとする流派があります。自然界には、どのような事象にも原因があります。現在の事象が原因となって、未来に新たな事象が結果として現れ、原因と結果が連続する、いわゆる因果の法則が成り立っています。


そして、自然界は常に変化変滅を繰り返しています。この自然界の姿をそうならしめるモノを指して「空」と表現しているそうです。日本では、この「空」の理論を採用する仏教の流派が伝わって、大きな位置を占めています。この場合、「神」に相当する存在について、言及しません。しかし、「梵我一如」という言葉があるように、釈迦在世の当時の仏教に立ち戻って見ると、宇宙のこころについても説かれております。

「神」とは大宇宙・大自然界に存在するこころ、と言えるでしょう。


日本の神道の場合は、自然界の様々な存在にこころがあることを教えています。
神道では、それは「神」の分霊だと言って、お祭りします。そういった点で、本来は、日本人はこころの存在を述べる考え方に、馴染みやすい国民なのではないかと思います。お祭り、というのは善なる存在と心を通わせるための方便でありますから、もちろん、悪に通じたものをお祭りするようなことはあってはなりません。

なんでもお祭りすれば良いということではありません。


こころが自然界を成り立たせている、その働きとして「慈悲」があります。自然界の営みを安定して成り立たせ、維持しようとする「意思」の事です。神仏は「慈しみのこころ」によって、自然界に存在する総ての生命が、その営みを維持できるように必要なものを提供して下さっています。
例えば、水は生命を育むのに不可欠なものです。ですから、それを提供してくれる、天からの雨は神仏の「慈悲」になります。川の流れ、その水も神仏の「慈悲」です。同様に、太陽から降り注ぐ光も神仏の「慈悲」です。このような説明ができます。

「正しく見る」とは、この自然界を安定して成り立たせている、神仏のこころを理解し、その普遍的な、公平な立場から見る、このようにも言えると思います。

「正しく思う」とは、慈悲のこころを根底にして「思う」ことです。自然界の慈しみのこころを理解出来るように、そして、「思う」ことが、この慈愛のこころに叶(かな)うような生活になるよう努力しなさい。これが「正しく思う」ことです。


「正しく語る」
というのは、公平なものの見方、すべてを慈しむ思いやりのこころ、このこころでもって、「語る」ことです。慈愛のこころを持って、一人一人の相手に対して、親切な言葉、慈しみの言葉、励ましの言葉を心がけることです。

「正しく見る」「正しく思う」「正しく語る」この三つが、まず、大事になります。


次に、
「正しく仕事をなす」、「正しく生活する」、「正しく道に精進する」、「正しく念ずる」、
「正しく定にいる」
、これら五つがあります。前の三つを基本にして、さらにこれら五つの基準で「中道」をはかります。

「正しく仕事をなす」では、実際の仕事環境の中で、前の三つ、「正見」、「正思」「正語」を生かしていくことが、大事になると思います。

お商売をやっている場合、仕事に「慈しみの心」を、どのように生かすのかと、疑問を持つ方もおられるかも知れません。

人間は仕事を通して、社会を支える活動を行い、それによる報酬によって、自分の生活を維持しています。人は仕事によって、互いに、社会に必要なモノやサービスを提供しあっていますが、このことを深く見つめてみますと、人が働くとは、言わば互いに奉仕し、助け合う行為である、ということが分かります。このような仕事を通してさまざまな体験を積むことによって、自分の心の修行を行っている、「慈しみの心」を学んでいる、とも言えます。そして、人は安定した安らぎに満ちた社会を目指して行くものだと思います。


(一部省略)

これだけでなく、一般に困難に立ち向かうときは、私心が無い、慈悲、公平な立場が大事です。自然界の姿を素直に見みつめて、慈悲の心を学んでいくことは、人間としての、最も基本的な態度であり、とても大切なことではないかと思います。一般の仕事にも十分活用していけるはずです。


次に、
「正しく生活をする。」これは簡単に言うと、心のクセを直すことだそうです。

人間の性格の短所を改め、長所をのばすことです。短所とは、例えば、怒りっぽい心、愚痴を言う心、増上漫(思い上がること)の心、恨む心、これらは自分にも他人にも良くない結果をもたらします。これらを改めて、素直な明るい性格を作り出すことです。


他に、間違った生活習慣を正す、と言う意味も含まれると思います。今まで、自分たちが生活の中で培ってきた、伝統とか、習慣とか、家族の中での習わし事などを、公平な、中道の考え方に則(のっと)って改めていく。これらを含めて、自分の心のクセを修正することが「正しく生活をする」ことです。この修正ためには、正しい中道による「反省」が大切になることでしょう。それから、生活というと、生活の中での人間関係もあります。自分の長所をのばすことによって、明るい性格を作ることは、自分の身の周りも明るくしていきます。親子、兄弟、自分の子供、隣人の人たちと、豊かな人間関係を作る、こういう、意味合いも出てくるのではないかと思います。


「正しく道に精進する。」
これは、身の周りの人間関係を整えて、人間としての道を正していくことです。先程、「正しく生活する」というところで、己の心を正し、欠点を改めることは、隣近所、家族との生活も整えることになるよと言いましたけれども、「正しく道に精進する」方は、親子のあり方、兄弟のあり方、夫婦のあり方など、人間関係のあり方を、中道の精神に叶う、公平で、普遍的なものに整えていくことです。具体的に言うと、さまざまな人間関係の中で、互いに助け合い、協力しあい、補い合う、慈愛の心を具現していくことです。
これによって、安らぎに満ちた、豊かな社会を築いていくことです。家族のあり方、友人同士のあり方、仕事の中での倫理的なあり方など、身近な人間関係から始まって、その対象は限りなく広がっていきます。


それから、中道の基準で、正しい人間関係のあり方を見いだしていく、「正しく道に精進する」ことは、一般に言われる「道徳」にも叶うことだと思います。つまり、仏教は道徳も説いている、私はこのように思います。


現代では、人間の心のあり方の大切なものとして、「愛」が良く取り上げられるようになりました。助け合うこころ、互いに足りないものを補い合うこころ、つまり相互扶助のこころのことです。

例えば、親子の関係では、現代は親子の愛が大切である、と言います。仏教では、愛を、「愛執」「愛着」というように、中道から離れた執着を意味する言葉として使うことがあり、愛の大切さをあまり説きません。しかし、親子の間の思いやりは、仏教でも説きます。親に対する孝行の心、子に対する慈しみの心など、思いやりの心は、ちまたで言う、「愛」と根本は同じものだと思います。


夫婦の間の思いやり、なども同様です。

「情け」も大切なものとして挙げられることがあります。辛い思いをしている人の気持ちを理解し、何とか助けようとするこころのことです。

慈しみのこころ、情けのこころを、「慈悲」と言う言葉でひとくくりにして表現しますが、この「慈悲」の中にある「悲しみ」という言葉が、「情け」の意味になります。

人が辛い思いをしているときに、その気持ちが理解出来るようになること、これが「悲しみ」です。

「慈しみ」というのは、そのものずばり、困っている人に、必要なモノを与えてあげることです。このように「慈悲」のこころは、道徳の規準としても、最高のものになります。


 そして、八正道の七つめに、「正しく念ずる」があります。
正しくない念、というのは自己本位の心でモノを欲する念です。
心でモノを思い描く事は現実の世界に現れる出来事の原因になります。人は、まず心でモノを思い描き、それが意思決定につながって、行為行動となって現れていきます。


外国の人で、宗教とは全く違った、あるビジネス関係の仕事に就いている人の本をチラッとみたことがありました。そこには、簡単に、思うことはモノを創造する、思い念ずれば実現する、と書いておりました。アメリカの方だったでしょうか。

「念ずる」ことは物を創造するときに、人間が最初に行う行為です。


しかし、これは、大自然の中道の心に適ったものでなければいけません。なぜならば、自然界には原因と結果が連続する、因果の法則が成立しています。自分本位の念は、悪の結果を招き、他者に対する慈愛の心は善い結果を将来します。それは、自分本位の念は、中道の心によって生かされている、この大宇宙の営みから、自分自身を引き離す事になるからです。既成仏教では「足ることを知る」ことの大切さを説きますが、これも中道の心の事を言っています。

このように念は物事の創造の行為ですから、宗教では、念は非常に大事になります。


ところで、先程、「大宇宙の意識」の存在について、お話をしましたが、このような言葉に抵抗がある人もおありかも知れません。


しかし、この自然界を眺めてみますと、大宇宙の中で地球が安定して存在し、地球上では、諸々の生命が繁栄し、数千万年、数億年に渡ってその営みが続いています。

万物の営みを支えている、そうならしめる、こころの存在は否定できないと思います。
ここでお話しましたように、諸々の生命が互いに支え合いながら繁栄している姿を「調和」という言葉で表現することにしますと、私は、調和を実現するための大事な役割を持っているのが、人間なのだと思います。


その人間が、地上世界にどうやって現れたのか、というと、どうも次のように古代インドの宗教や、初めのころの仏教では説いていたようです。これは、私の考えも入っていますが、お話ししてみますと、最初は宇宙全体を支配するこころがあった。(「ブラフマン」「阿頼耶識(あらやしき)」等)そのこころの世界の中で、生命、あの世の生命・魂が生まれた。あの世の生命が働きかけることによって、地上の世界が現れた。つまり、心の根源にある宇宙の意識、人間の心、地上世界の人間の身体です。

仏教のこのような考え方を、強調して説く人はあまりありません。

しかし、仏教の経典では、さまざまな表現を使って、このことを説いています。

すべて、人間の心の根源は善であり、それを仏性と呼ぶのだ、と仏教では説いております。この仏性とは、「阿頼耶識(あらやしき)」等を指しています。
それから、「色心不二」という言葉があります。これは「大乗起信論」という仏教の解説書に出てくる言葉です。


さらに非常によく知られたお経である「般若心経」に「色即是空、空即是色」と言う言葉があります。

「色」とは目に見えるモノです、色を持ったモノですから、地上世界に存在する物質を指します。「空」とは目に見えないモノ、目に見えないけれども、確かに存在しているモノ。例えば、「空」そのもののことではありませんが、空気について考えてみますと、空気は目に見えません。見えないですが、団扇(うちわ)で扇ぐと風が巻き起こります。ですから、空気は確かに存ることは理解できます。同様に、物質世界の営みを支えている心の働きは目に見えません。しかし、この大宇宙には中道の法、因果の法則が確かに成り立っています。法則を法則たらしめている世界が、「空」の世界です。ですから、「空の世界」これと同じである処の、イコールの、「心の世界」、という解釈が成り立ちます。


この解釈で「色即是空、空即是色」を現代語に言い直しますと、心が地上世界を造り出し働きかけている、逆に地上世界の働きかけで、心の世界も変わっていく、このような言い方になります。

それから、「色心不二」という言葉は心と体は一体のものである、ということを表します。人間は心と体の両方を持ち、これらが一体になって存在していることを言っています。

このように、仏教でも、心の世界でモノを創り出すと、それが形に表れる、と言っているのです。

人間は念を正しく使わなければいけません。


ここで、話は変わりますが、過去には、邪(よこしま)な動機で念を使う、ということが為されていたそうです。真実かどうかは分かりませんが、昔の言い伝えでは、例えば、過去の宗教に、戦争時に、敵を倒すためのお祈りの方法を教えるものがあったそうです。これが可能かどうかは別にしまして、人を恨んだり、人の不幸を念じたり、などということは、慈愛の心を説く宗教のありかたから見れば、あってはならないことです。


繰り返しますが、念ずるとは、心でモノを思い描くことによって、モノを創造する行為です。

「正しく念ずる」とは、その、思い描くことを正しく行いなさい、と言っています。

仏教がこれを説くのは、宗教であるからこそです。

念の正しいあり方について説いていることからも、仏教が、心を実体のあるものとして捉えていることが分かります。
心の世界で思い描くことは、行為行動することと同じことであり、他者を生かす助け合いの心、中道の心が基本に無ければいけない、公平・中立な基準をあてはめなければいけない、と言っている訳ですね。

八正道の最後に
「正しく定にいる」が説かれています。これは反省・懺悔と瞑想です。日常の生活を、先程の七つの基準で整えて、円やかな、穏やかな人格を造りあげたところで、瞑想しなさい、と説いています。この瞑想は、現代仏教でいう座禅(禅定)です。しかし、ここで注意しなければならないのは、瞑想の前に反省・懺悔によって、中道から離れた己の心のクセを修正しなければなりません。そして、心を円やかなものにした上で、瞑想することにより、その心を大きく、豊かに育んでいくことができます。


このように、正しい座禅をやりなさい、と言っているのですが、その座禅が正しく行えるようになる為には、先程の七つの基準が生活に生かせるようにならなければいけない。これが、お釈迦様が説かれたものです。

お釈迦様はこの八正道を発見され、それを実際に自分で実行なさって、お悟りを開かれました。

【平成23年 福井大仏西山光照律寺 副住職(当時、福井大仏旧HPに掲載)】

令和元年 6月1日 解説を付けて再掲載 福井大仏西山光照律寺住職


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