八正道の基準を挙げますと、正しく見る、正しく思う、正しく語る、正しく仕事をなす、正しく生活する、正しく道に正進する、正しく念ずる、正しく定に入る、の八つです
まず、正見、正思、正語、の三つがあります。伝統仏教でも、見る、思う、語る、ということは大事だよ、と言い伝えています
例として、見猿(みざる)、言わ猿(いわざる)、聞か猿(きかざる)、という三猿(さんえん)の喩え、有名な諺があります。身の周りには欲望を駆り立てる諸々のものがあるが、出家者はこれを見ない。また、人の悪口や、欲望をそそるような話を出家者は聞かない。自分も相手の心を惑わすような、人を混乱させるような事を言わない。このようにしなさい、という喩えを使った教えです。
釈迦が説かれた、正見、正思、正語は「中道」の心で、ものを見て、思い、語りなさい、ということです。「中道」に含まれる意味の一つには、「公平」に物を見なさい、ということも含まれていると思われます。ある一つの考え方に偏らず、様々な人たちの話を聞いて、普遍的なものを見いだして行くことです。既成のものを見直し、物事の真実を探る、ということもあると思います
宇宙が安定して存在しているのは「中道」という法則が働いているからだ(「心の階段」の『中道』の解説)と言いましたが、「中道」を成り立たせているこころについて、宗教は説いています。釈迦在世の当時の古代インドでは、宇宙には万物の根源として働いているこころが存在しているとして、これ「ブラフマン」と呼んでいたそうです。仏教では他に「阿頼耶識(あらやしき)」と言う呼び方もします。この言葉は中国に渡って「梵」と漢訳されました。
自然界が安定するのに、なぜこころが必要なのか、といいますと、宇宙に存在する、さまざまな世界の中で、矛盾のない法則性が成り立たなければいけないからです。 自然界を眺めると、どのような視点からでも、その視点に沿った自然法則が成り立っています。理工系の方なら分かると思いますが、力学なら、ニュートンの運動方程式、電磁気学ならマクスウエル方程式、さらに、生命科学の分野でも、ある法則が知られていると思います。
化学なら、例えば、質量保存則など、化学の中で成り立つ法則があります。これらの法則は、てんでバラバラに存在しているのではなく、宇宙全体を貫いて、一つの筋の通った、一体となった法則としてまとめることが出来るのだ、と科学者は言っています
ところが、このように言っておりながら、それを成り立たせているものはなにか、という問には、自然科学はまだ、はっきりと解答を示せておりません。これに対して、宗教では、例えば、キリスト教では神様がいらっしゃるからだよ、と言います。そして、仏教では、自然界にこころが存在するからだよ、と言うのです。それは宇宙全体に普遍的に広がった存在です。それを「梵」と言っているわけです。
少々補足が必要ですが、現在の仏教は、幾つかの流派に分かれています。その中には、理論上、「空」という表現に特別な意味を持たせて、自然界の成り立ちを説明しようとする流派があります。自然界には、どのような事象にも原因があります。現在の事象が原因となって、未来に新たな事象が結果として現れ、原因と結果が連続する、いわゆる因果の法則が成り立っています。
そして、自然界は常に変化変滅を繰り返しています。この自然界の姿をそうならしめるモノを指して「空」と表現しているそうです。日本では、この「空」の理論を採用する仏教の流派が伝わって、大きな位置を占めています。この場合、「神」に相当する存在について、言及しません。しかし、「梵我一如」という言葉があるように、釈迦在世の当時の仏教に立ち戻って見ると、宇宙のこころについても説かれております。
「神」とは大宇宙・大自然界に存在するこころ、と言えるでしょう。
日本の神道の場合は、自然界の様々な存在にこころがあることを教えています。
神道では、それは「神」の分霊だと言って、お祭りします。そういった点で、本来は、日本人はこころの存在を述べる考え方に、馴染みやすい国民なのではないかと思います。お祭り、というのは善なる存在と心を通わせるための方便でありますから、もちろん、悪に通じたものをお祭りするようなことはあってはなりません。
なんでもお祭りすれば良いということではありません。
こころが自然界を成り立たせている、その働きとして「慈悲」があります。自然界の営みを安定して成り立たせ、維持しようとする「意思」の事です。神仏は「慈しみのこころ」によって、自然界に存在する総ての生命が、その営みを維持できるように必要なものを提供して下さっています。
例えば、水は生命を育むのに不可欠なものです。ですから、それを提供してくれる、天からの雨は神仏の「慈悲」になります。川の流れ、その水も神仏の「慈悲」です。同様に、太陽から降り注ぐ光も神仏の「慈悲」です。このような説明ができます。
「正しく見る」とは、この自然界を安定して成り立たせている、神仏のこころを理解し、その普遍的な、公平な立場から見る、このようにも言えると思います。
「正しく思う」とは、慈悲のこころを根底にして「思う」ことです。自然界の慈しみのこころを理解出来るように、そして、「思う」ことが、この慈愛のこころに叶(かな)うような生活になるよう努力しなさい。これが「正しく思う」ことです。
「正しく語る」というのは、公平なものの見方、すべてを慈しむ思いやりのこころ、このこころでもって、「語る」ことです。慈愛のこころを持って、一人一人の相手に対して、親切な言葉、慈しみの言葉、励ましの言葉を心がけることです。
「正しく見る」「正しく思う」「正しく語る」この三つが、まず、大事になります。
次に、「正しく仕事をなす」、「正しく生活する」、「正しく道に精進する」、「正しく念ずる」、
「正しく定にいる」、これら五つがあります。前の三つを基本にして、さらにこれら五つの基準で「中道」をはかります。
「正しく仕事をなす」では、実際の仕事環境の中で、前の三つ、「正見」、「正思」「正語」を生かしていくことが、大事になると思います。
お商売をやっている場合、仕事に「慈しみの心」を、どのように生かすのかと、疑問を持つ方もおられるかも知れません。
人間は仕事を通して、社会を支える活動を行い、それによる報酬によって、自分の生活を維持しています。人は仕事によって、互いに、社会に必要なモノやサービスを提供しあっていますが、このことを深く見つめてみますと、人が働くとは、言わば互いに奉仕し、助け合う行為である、ということが分かります。このような仕事を通してさまざまな体験を積むことによって、自分の心の修行を行っている、「慈しみの心」を学んでいる、とも言えます。そして、人は安定した安らぎに満ちた社会を目指して行くものだと思います。
(一部省略)
これだけでなく、一般に困難に立ち向かうときは、私心が無い、慈悲、公平な立場が大事です。自然界の姿を素直に見みつめて、慈悲の心を学んでいくことは、人間としての、最も基本的な態度であり、とても大切なことではないかと思います。一般の仕事にも十分活用していけるはずです。
次に、 「正しく生活をする。」これは簡単に言うと、心のクセを直すことだそうです。
人間の性格の短所を改め、長所をのばすことです。短所とは、例えば、怒りっぽい心、愚痴を言う心、増上漫(思い上がること)の心、恨む心、これらは自分にも他人にも良くない結果をもたらします。これらを改めて、素直な明るい性格を作り出すことです。
他に、間違った生活習慣を正す、と言う意味も含まれると思います。今まで、自分たちが生活の中で培ってきた、伝統とか、習慣とか、家族の中での習わし事などを、公平な、中道の考え方に則(のっと)って改めていく。これらを含めて、自分の心のクセを修正することが「正しく生活をする」ことです。この修正ためには、正しい中道による「反省」が大切になることでしょう。それから、生活というと、生活の中での人間関係もあります。自分の長所をのばすことによって、明るい性格を作ることは、自分の身の周りも明るくしていきます。親子、兄弟、自分の子供、隣人の人たちと、豊かな人間関係を作る、こういう、意味合いも出てくるのではないかと思います。
「正しく道に精進する。」これは、身の周りの人間関係を整えて、人間としての道を正していくことです。先程、「正しく生活する」というところで、己の心を正し、欠点を改めることは、隣近所、家族との生活も整えることになるよと言いましたけれども、「正しく道に精進する」方は、親子のあり方、兄弟のあり方、夫婦のあり方など、人間関係のあり方を、中道の精神に叶う、公平で、普遍的なものに整えていくことです。具体的に言うと、さまざまな人間関係の中で、互いに助け合い、協力しあい、補い合う、慈愛の心を具現していくことです。
これによって、安らぎに満ちた、豊かな社会を築いていくことです。家族のあり方、友人同士のあり方、仕事の中での倫理的なあり方など、身近な人間関係から始まって、その対象は限りなく広がっていきます。
それから、中道の基準で、正しい人間関係のあり方を見いだしていく、「正しく道に精進する」ことは、一般に言われる「道徳」にも叶うことだと思います。つまり、仏教は道徳も説いている、私はこのように思います。
現代では、人間の心のあり方の大切なものとして、「愛」が良く取り上げられるようになりました。助け合うこころ、互いに足りないものを補い合うこころ、つまり相互扶助のこころのことです。
例えば、親子の関係では、現代は親子の愛が大切である、と言います。仏教では、愛を、「愛執」「愛着」というように、中道から離れた執着を意味する言葉として使うことがあり、愛の大切さをあまり説きません。しかし、親子の間の思いやりは、仏教でも説きます。親に対する孝行の心、子に対する慈しみの心など、思いやりの心は、ちまたで言う、「愛」と根本は同じものだと思います。
夫婦の間の思いやり、なども同様です。
「情け」も大切なものとして挙げられることがあります。辛い思いをしている人の気持ちを理解し、何とか助けようとするこころのことです。
慈しみのこころ、情けのこころを、「慈悲」と言う言葉でひとくくりにして表現しますが、この「慈悲」の中にある「悲しみ」という言葉が、「情け」の意味になります。
人が辛い思いをしているときに、その気持ちが理解出来るようになること、これが「悲しみ」です。
「慈しみ」というのは、そのものずばり、困っている人に、必要なモノを与えてあげることです。このように「慈悲」のこころは、道徳の規準としても、最高のものになります。
そして、八正道の七つめに、「正しく念ずる」があります。
正しくない念、というのは自己本位の心でモノを欲する念です。
心でモノを思い描く事は現実の世界に現れる出来事の原因になります。人は、まず心でモノを思い描き、それが意思決定につながって、行為行動となって現れていきます。
外国の人で、宗教とは全く違った、あるビジネス関係の仕事に就いている人の本をチラッとみたことがありました。そこには、簡単に、思うことはモノを創造する、思い念ずれば実現する、と書いておりました。アメリカの方だったでしょうか。
「念ずる」ことは物を創造するときに、人間が最初に行う行為です。
しかし、これは、大自然の中道の心に適ったものでなければいけません。なぜならば、自然界には原因と結果が連続する、因果の法則が成立しています。自分本位の念は、悪の結果を招き、他者に対する慈愛の心は善い結果を将来します。それは、自分本位の念は、中道の心によって生かされている、この大宇宙の営みから、自分自身を引き離す事になるからです。既成仏教では「足ることを知る」ことの大切さを説きますが、これも中道の心の事を言っています。
このように念は物事の創造の行為ですから、宗教では、念は非常に大事になります。
ところで、先程、「大宇宙の意識」の存在について、お話をしましたが、このような言葉に抵抗がある人もおありかも知れません。
しかし、この自然界を眺めてみますと、大宇宙の中で地球が安定して存在し、地球上では、諸々の生命が繁栄し、数千万年、数億年に渡ってその営みが続いています。
万物の営みを支えている、そうならしめる、こころの存在は否定できないと思います。
ここでお話しましたように、諸々の生命が互いに支え合いながら繁栄している姿を「調和」という言葉で表現することにしますと、私は、調和を実現するための大事な役割を持っているのが、人間なのだと思います。
その人間が、地上世界にどうやって現れたのか、というと、どうも次のように古代インドの宗教や、初めのころの仏教では説いていたようです。これは、私の考えも入っていますが、お話ししてみますと、最初は宇宙全体を支配するこころがあった。(「ブラフマン」「阿頼耶識(あらやしき)」等)そのこころの世界の中で、生命、あの世の生命・魂が生まれた。あの世の生命が働きかけることによって、地上の世界が現れた。つまり、心の根源にある宇宙の意識、人間の心、地上世界の人間の身体です。
仏教のこのような考え方を、強調して説く人はあまりありません。
しかし、仏教の経典では、さまざまな表現を使って、このことを説いています。
すべて、人間の心の根源は善であり、それを仏性と呼ぶのだ、と仏教では説いております。この仏性とは、「阿頼耶識(あらやしき)」等を指しています。
それから、「色心不二」という言葉があります。これは「大乗起信論」という仏教の解説書に出てくる言葉です。
さらに非常によく知られたお経である「般若心経」に「色即是空、空即是色」と言う言葉があります。
「色」とは目に見えるモノです、色を持ったモノですから、地上世界に存在する物質を指します。「空」とは目に見えないモノ、目に見えないけれども、確かに存在しているモノ。例えば、「空」そのもののことではありませんが、空気について考えてみますと、空気は目に見えません。見えないですが、団扇(うちわ)で扇ぐと風が巻き起こります。ですから、空気は確かに存ることは理解できます。同様に、物質世界の営みを支えている心の働きは目に見えません。しかし、この大宇宙には中道の法、因果の法則が確かに成り立っています。法則を法則たらしめている世界が、「空」の世界です。ですから、「空の世界」これと同じである処の、イコールの、「心の世界」、という解釈が成り立ちます。
この解釈で「色即是空、空即是色」を現代語に言い直しますと、心が地上世界を造り出し働きかけている、逆に地上世界の働きかけで、心の世界も変わっていく、このような言い方になります。
それから、「色心不二」という言葉は心と体は一体のものである、ということを表します。人間は心と体の両方を持ち、これらが一体になって存在していることを言っています。
このように、仏教でも、心の世界でモノを創り出すと、それが形に表れる、と言っているのです。
人間は念を正しく使わなければいけません。
ここで、話は変わりますが、過去には、邪(よこしま)な動機で念を使う、ということが為されていたそうです。真実かどうかは分かりませんが、昔の言い伝えでは、例えば、過去の宗教に、戦争時に、敵を倒すためのお祈りの方法を教えるものがあったそうです。これが可能かどうかは別にしまして、人を恨んだり、人の不幸を念じたり、などということは、慈愛の心を説く宗教のありかたから見れば、あってはならないことです。
繰り返しますが、念ずるとは、心でモノを思い描くことによって、モノを創造する行為です。
「正しく念ずる」とは、その、思い描くことを正しく行いなさい、と言っています。
仏教がこれを説くのは、宗教であるからこそです。
念の正しいあり方について説いていることからも、仏教が、心を実体のあるものとして捉えていることが分かります。
心の世界で思い描くことは、行為行動することと同じことであり、他者を生かす助け合いの心、中道の心が基本に無ければいけない、公平・中立な基準をあてはめなければいけない、と言っている訳ですね。
八正道の最後に 「正しく定にいる」が説かれています。これは反省・懺悔と瞑想です。日常の生活を、先程の七つの基準で整えて、円やかな、穏やかな人格を造りあげたところで、瞑想しなさい、と説いています。この瞑想は、現代仏教でいう座禅(禅定)です。しかし、ここで注意しなければならないのは、瞑想の前に反省・懺悔によって、中道から離れた己の心のクセを修正しなければなりません。そして、心を円やかなものにした上で、瞑想することにより、その心を大きく、豊かに育んでいくことができます。
このように、正しい座禅をやりなさい、と言っているのですが、その座禅が正しく行えるようになる為には、先程の七つの基準が生活に生かせるようにならなければいけない。これが、お釈迦様が説かれたものです。
お釈迦様はこの八正道を発見され、それを実際に自分で実行なさって、お悟りを開かれました。
【平成23年 福井大仏西山光照律寺 副住職(当時、福井大仏旧HPに掲載)】
令和元年 6月1日 解説を付けて再掲載 福井大仏西山光照律寺住職
|
|